そろそろ暇がほしくなってきた。
自分が今なんでこの作業しているのか自分に説いてみる。
時代と状況があれば、もしかしたら庭で豚を二匹ぐらい飼って生きていかねばならないことがあるかもしれない。しかし、今時分は必要とあれば、徹夜しやることがある。はっきり言ってこの活動は生きることとはなんら関係が無いような気がする。しかし自分がそれをやることを選択した瞬間から、そこに自分の人生がありそれ以外はない。これが、今この瞬間が生きている自分そのものすべてでありそれを失った瞬間死ぬ。心も体も死ぬ。そう考えられる。
つまりあきらめないことが唯一の生き抜く手段である。
瞬間に自分の生きていることを示すには、社会に存在する必要がある。それは人間として存在する必要があるということである。また人間と何かつながるものがなければならない。徹底的に、自分以外の存在である人間につながりを作らなければならない。人間を人間たらしめているのは、自分の意識を相手の意識の中に垣間見ることである。この瞬間社会に自分が存在していることを自分が確認できる。
ここで言う意識とは、外見、態度、言葉、経歴、所有物、などその人間にのみにおいて成り立つもののすべてである。
眠い。
過ぎてゆく季節に、おいてきた宝物
さてこれはなんだろうか。何か思いつくだろうか。さて何も思いつかない。
最近日常生活でいちばん気になることは、授業の最後に起こる不思議なイベントである。
なぜかみんな急に、帰り支度を始める。まだ、教授が話しをしているというのに。
シャーペンを筆箱に入れる音、筆箱のジッパーを開ける音、ボールペンの先をしまう音、ノートを閉じる音、携帯を手にとる音、イスを下げる音、靴を履きなおす音、めがねをかける音、上着を手に取る音、授業中に飲んだ紙パックをつぶす音、という音と教授が授業の最後に話す3つぐらいの大事なことは、いつも同時に発生する。
なぜ?
どうして?
まだ前で人がみんなに向けて声を出してるというのに?
まったく理解できない。
そして何より、それによって私が、聞こうと思っている教授の話がかき消されてしまうこと。
これによって私はストレスを感じる。
彼らはみんな教授に喧嘩を売っているのか?
それとも私に喧嘩を売っているのか?
それともみんなつんぼだから、教授の話が聞こえないのか?
そんなにすぐそこから去りたいなら、何で来たんだ?何で大学にいるんだ?何でノートなんか持ってるんだ?何でシャーペンなんか持ってるんだ?永遠にうちで寝てろよ。
こんなことを思ったことは無いんだろうか。この考え方はおかしいのだろうか。誰か教えて。
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