たまにロボットを考えるブログ・・・。
日々は過ぎる。それは瞬きをするのと同じようで、また違う。時間の経過というのは甚だ人知を超越している。
今日の感動は何か、それは今日の自然科学史の講義での話だ。自分は高校では物理を習った。一応ⅠⅡはやった。完璧に内容を理解しているかといえば、そんなバカな、という話だがどうやら世界の理論物理の世界というのはいろんな次元空間を持つようだ。もともと理論物理という言葉が俺にはよくわからない。物理事象でないことをどうやって議論するんだ。それよりもまず、理論物理とはなんだ。
理論物理学(りろんぶつりがく、英: Theoretical physics)は、物理学において、理論的な模型や理論的仮定(主に数学的な仮定)を基に理論を構築し、既知の実験事実(観測や観察の結果)や、自然現象などを説明し、かつ未知の現象に対しても予想、予言し得る物理理論を扱う分野のこと。
Wikipedia哲学(てつがく、古希: φιλοσοφία フィロソフィア = 愛知、愛智[1])とは、
理性的な思考自体も研究対象になる。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(例、ソクラテスの哲学、など)。
Wikipedia
つまり学問とは哲学のことである。いや、であった。ということらしい。まいった。自分はだいぶ前から、哲学とは学問の始まりであり、すべてを通して普遍なものだと解釈していた。つまり、哲学者最強説を心のどこかで唱えていた。どうやら違うようだ。
思考を用いた事実の整理、のことのようだ。理性的な。つまり思うこと考えることである。事実の整理とは何か。最近の科学によれば、人間は睡眠中に記憶の整理を行うらしい。ということは、どういうことか。人間の思考における整理すべきものと、睡眠中に整理すべきものとはそれぞれ何だろうか。同じものであるとは考えられないだろうか。事実というのは記憶である。感覚器から脳内で情報化され認識され記憶される。それがいかに整理されるかということである。しかし夢の中で見るものは、必ずしも自分に理解できる内容ではない。これはどういうことか、それは理解できていないこと、情報化されずに、記憶され意識の中には入らなかったものが睡眠中には整理されることがあるということだ。ここで理性的とはどういうことか。理性的の反対が本能的であるというのは何も考えずに理解できる。よって、哲学とは、理性的な睡眠のことではないだろうか。思考にふけるということは一種の睡眠に等しい。のではないだろうか。
現在は睡眠については医学的必要がはっきりしていない。まあ妥当と考えられるのが、精神の安寧を保つため。というのだろうか。精神の安寧を保つといえばどういうことか。それはストレスの調整というかバラストというかではないだろうか。ということは何かしら、すごく気分のいいことが必要。それは激しい欲求への回答ではなく、欲求の存在すら通り越した、存在するために最低限の行為ではいか。人間が生きるということはストレスの発散であり、発生である。それは人の理性的な行動により生じる。本能的に動いている動物にもストレスに匹敵する感覚は存在するだろうが、それに対して安寧を必要としたりすることは考えにくい。つまり”余分なストレス”というのは理性行動の証である。はず。
ここで哲学の新たな理解が始める。前述したように、哲学というのは理性的な睡眠ではないかと考えた。これはどういうことを言っているかというと、人間が、理性的であることを永遠に保つ、一連を作ったということである。”循環ストレス”といえるだろう。つまりストレスの自給自足。これがどういうことを指し示すかということは、簡単なことで、人間が、本能的な欲求をなくしても活動原理であるストレスをコントロールできるということである。つまり何がいいたいかというと、真の哲学者に本能的な要素はなくなる。ということである。
したがって、人間の進化していく未来の一つとは考えられないだろうか。行動するための原理を理性的に生みだし、それを本能の集合である、自然に還元していく。これはまさに自然からの独立。よく考えてみよう。本能的なものが物質的な科学で決まる。つまり普遍法則の中で決定され時間がすすんで行くとしよう。そのときに、人間という種族が、本能からの独立を果たしていたら、それはどうなるだろうか、これは”時間の流れからの独立”ということにはならないだろうか。
これは単なる暇人の世迷言であるが、人類の未来は物質ではないのではないだろうか。つまり人類の存在とは、理性そのものではなかろうか。
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